縄文土器に刻まれた太陰的世界像―4

    太陽暦 

 太陽暦 たいようれき

 太陽の運行にもとづく1太陽年(365.2422日)を基本に1年の日数をきめた暦法で、平年を365日とする。太陽暦の起源はエジプトにあったが、前45年のローマでユリウス・カエサルが4年に1度の閏(うるう)年(366日)をもうけたユリウス暦を実施、精度をあげた。16世紀にローマ教皇のグレゴリウス13世によって閏年をさらに厳密にしたグレゴリオ暦が採用され、現在まで世界じゅうでつかわれている。

明治政府は1872年(明治5)に太陽暦を採用、明治5年12月3日をグレゴリオ暦の1873年(明治6)1月1日として新暦と称した。開国以降、欧米列強の暦との調整が必要となったからである。また当時、政府は財政難で、グレゴリオ暦の採用によって明治5年12月分の政府経費を節約することも変更の目的であったといわれる。

   暦

  暦 こよみ Calendar 

時間の流れを日、週、月、年に区切って、かぞえる体系。これらの区切りは、地球の運動と太陽と月の動きにもとづいている。1日は地球が1回自転する平均時間である。1年は地球が春分点を発し、太陽のまわりを1周(公転)してふたたび春分点にもどるまでの周期で、回帰年あるいは太陽年といわれる。1太陽年は365日5時間48分強である。

  ひと月は古代には、満月から次の満月までの時間、つまり月が地球を1周するのに必要な時間で、29.53日であった。これを朔望月(さくぼうげつ)あるいは太陰月とよび、これにしたがうと1太陰年は354日となり、1太陽年よりも11日強少なくなる。近代の暦では、月の日数をこのようにきめてはいない。ひと月の長さは約12分の1年である28日から31日とし、1太陽年にちょうど12カ月が入るように調整した。週は、毎日労働して7日目ごとに安息日をおくというユダヤ教、キリスト教の伝統にもとづくもので、自然現象に由来するものではない。この人工的な時間の単位はローマ暦の中で確立され、1週間のそれぞれの日の名称を太陽と月、そして土星、木星、火星、金星、水星の惑星にちなんでつけた。

  黄道と天の赤道がまじわる2つの点は、交点または分点とよばれる。太陽は3月21日ごろ春分点に、9月21日ごろ秋分点に到達する。黄道上で分点の中央にあるのが夏至点と冬至点で、太陽はそれぞれ6月21日ごろと12月21日ごろに到達する。黄道面と赤道面が反対の方向に回転しているので、黄道上の分点の位置は毎年少しずつ移動する。そのため、春分、夏至、秋分、冬至は年によってちがってくる。

  古代の暦

  日常生活に便利なように、時間の流れの基準をつくるために暦は必要である。しかも社会活動が活発になるにつれ、広く共通した暦が必要になってくる。

古代から現代までにたくさんの暦がつかわれ、変化してきたのは、初期にきめた1年の長さが不正確であったことと、日、週、月の時間単位では、1年が均等にわけられないことに原因があった。初期の暦は太陰月にもとづいていたため、季節がずれてきた。そこで1太陽年とあわせるために、ときにはさらにひと月が閏月(うるうづき)として挿入された。このような調整を周期的におこなう暦を太陰太陽暦という。

古代バビロニアでは太陰太陽暦をつかっていて、1年は30日をひと月とする太陰月の12カ月からなるとした。そして季節がずれないように、必要なときは閏月をくわえた。

太陰暦を太陽年にもとづいた暦とおきかえたのは、古代エジプト人たちである。彼らは1太陽年が365日であることを測定し、これを30日をひと月とする12カ月にわけ、年のおわりにさらに5日をくわえた。

前238年ごろ、プトレマイオスIII世は4年ごとにさらに1日をくわえるようにした。これはちょうど現在の閏年に相当する。古代ギリシャでは太陰太陽暦がつかわれていた。前433年ギリシャのメトンは、朔望月と太陽年の関係を観測をもとに計算した。これは19年に7回閏月をもうけるというものでメトン周期といわれる。

  日本の暦

 日本では、1873年(明治6)から太陽暦のグレゴリオ暦がつかわれている。それまでは太陰太陽暦を採用していたが、72年12月3日を太陽暦の73年1月1日としたのである。

古代以来つかわれていた太陰太陽暦に重要なのは日付のほかに、節気と干支(えと:→ 十干十二支)であった。それに季節や日の吉凶をしめす迷信的な注がつけられていた。これは具注暦(ぐちゅうれき)といわれるもので、藤原道長の自筆日記「御堂関白記(みどうかんぱくき)」は具注暦の余白に書かれたものとしてよく知られている。

また、奈良県明日香村の石神遺跡(いしがみいせき)からは、689年(持統3)とされる国内最古の具注暦の書かれた木簡が出土している。

日本では時代によっていろいろな太陰太陽暦がつかわれてきたが、基本は古代中国でつかわれていたもので、月をなるべく季節にあわせることに特徴がある。

中国では黄道上の太陽の位置を、冬至からはじめて12等分し、それらの点を中気とよび、中気と中気の中央点を節気とよんだ。それら全部をあわせると二十四節気となる。

冬至と春分の中央にある点は立春で、立春をふくむ月を正月とした。中気から中気までの長さは平均30.44日程度で、太陰月の平均29.53日より長いため、中気が太陰月の中で月末のほうにずれていき、次の年の立春は11日おくれることになる。また中気をふくまない月もあり、その月は前の月と同じ名前に閏をつけてよぶ。つまり、その年は1年に13カ月あることになる。

日本での太陰太陽暦のもっとも古い例は6世紀半ばに伝来し、7世紀ころからつかわれはじめていた元嘉暦(げんかれき)で、中国から百済を通じて採用された。日本独自の暦が採用されるようになるのは江戸前期の貞享暦以降のことである。

現在でもこの太陰太陽暦は、旧暦といって年中行事や農作業などではつかわれることが多い。節分、彼岸、入梅、土用などは雑節とよばれ、日本独特のものであり、季節感にあふれ、日本人の生活に節目をあたえている。節分は立春の前日、八十八夜は立春から88日目、二百十日は立春から210日目であり、気象や農作業などで重要な日となっている。入梅は太陽が春分点から80°うごいた日で、梅雨に入る日の意味である。土用は太陽が春分点から27°、117°、207°、297°になる日からの約18日間をいう。とくに夏の土用は今でもよくつかわれている。

  閏秒

  1年を日や月できっちりわけられないことから、時間のずれが積算され、これを調整するために閏年がおかれている。現代の科学では地球の自転が不規則であり、しかもだんだん遅れが出ることがわかっている。たとえば秒の定義につかわれているセシウム時計が1958年1月1日0時から積算しつづけている時間と、地球の公転からきめている暦とでは、わずかなずれが生まれてきた。

これを調整するために、1秒をくわえたり、ひいたりすることをおこなっている。これを閏秒という。つまり、閏秒によって一定不変の原子時の秒を規準にした協定世界時と世界時(平均太陽時)との差が常に±0.9秒以内にあるように管理している。

その時期は、協定世界時の6月か12月の最終日の最終秒のところで、必要に応じて最終秒に1秒くわえたり、1秒ひいたりする。日本時間では9時間すすんでいるので、7月1日と1月1日の午前9時の直前にこれをおこなう。たとえば日本では1月1日午前8時59分59秒の1秒後が午前9時になるはずなのに、閏秒を挿入すると、午前8時59分60秒ができて、その1秒後が午前9時になる。

 日 ひ Day 

国際単位系と併用される時間の単位。記号はdで、1d = 24h (時間) = 86400s(秒)。ほぼ地球が地軸の周りを自転する周期。この周期には太陽の子午線通過を基準とする平均太陽日と、春分点の子午線通過を基準とする恒星日とがある。

太陽日は子午線を通過した太陽が次に子午線を通過するまでの時間ではかられるが、軌道上での地球の速度の変化によって1日の長さがわずかにかわる。そのため、太陽日の長さの1年間の平均をとった平均太陽日が、日常的にもちいられる。1日は習慣的に24時間にわけられる(→ 時間:秒)。

現在、日常生活の1日は午前0時にはじまる。古代には、バビロニアやユダヤでは日没から1日がはじまっていたことがあった。今でもユダヤ教では、1日は日没からはじまることになっている。近年まで1日は正午にはじまることになっていた。ユリウス暦の1日は、今でも正午にはじまる。

 週 しゅう Week 

7日を周期とする世界共通につかわれている時間の区切り。起源はユダヤ教にはじまる。7日ごとに安息日をもうけ、神をたたえるという、旧約聖書のモーセの律法が週の尺度を生み、ローマ暦のなかで確立された。週日には占星術から、天体の名がつけられ、周期性がたもたれるようになった。

土星、木星、火星、太陽、金星、水星、月が曜日の名称のもとになっている。これらの名称のうちローマ神の一部が北欧神話の神々におきかえられて現在の曜日の名称になっている。日曜日(Sol:ローマの太陽神)、月曜日(Moon:月)、火曜日(Tui:北欧神話のテュール、火星)、水曜日(Woden:北欧神話の主神オーディン、水星)、木曜日(Thor:北欧伝説の雷神のトール、木星)、金曜日(Frygga:北欧神話の愛の女神フレイヤ、金星)、土曜日(Saturn:ローマ神話の農耕の神サトゥルヌス、土星)。

  月 つき Month 

もともと1月という単位は、月の満ち欠けを基準にはかられた時間の周期をいった。月(太陰)の満ち欠けを利用した暦が太陰暦であるが、現在つかわれている太陽暦は、月の満ち欠けとは関係はない。現在は1年を12月にわけ、1月の長さは1月、3月、5月、7月、8月、10月、12月が31日、4月、6月、9月、11月が30日、2月が28日となっている。ただし閏年(うるうどし)は2月が29日となる。

なお、欧米の月名はローマ暦に由来したものであるが、7月と8月にユリウス・カエサルとアウグストゥスを記念した月名を挿入したために、本来の月を意味する語がずれてしまっている。

天文学的には朔望月(太陰月)、恒星月、分点月、交点月などがあり、それぞれを正確に定義している。

朔望月(さくぼうげつ)は、月が太陽と同じ方向にきて光がみえないとき、つまり新月(朔)から満月(望)をすぎてふたたび朔にもどるまでの時間で、平均29.53059平均太陽日(→ 日)である。月が地球の周りのある恒星と同じ黄経(こうけい 座標系)を通過してから次にその恒星を通過するまでの時間が恒星月で、27.32166平均太陽日である。

分点月は、天球上を月がうごくとき、春分点(→ 春分)を出発し360度回転して、ふたたび春分点にもどるまでの時間で、27.32158平均太陽日である。交点月は、地球の周りを公転している月が、軌道上の昇交点から同じ昇交点まで1回転する平均時間で、27.21220平均太陽日である。昇交点とは、月が黄道面を南から北に横切る点である。

月の位相

地球の周囲をまわる月は、次々とことなる位相をみせるが、それは太陽光のあたっている部分がどれだけみえるかできまる。新月とよばれる位相では、地球からみえる面は完全に影に入っている。三日月をへて約1週間後、明るい半円の上弦の月となる。さらに1週間後に満月となり、また1週間後にはふたたび半円形の下弦の月となる。このサイクルが太陰月ごとにくりかえされる。

    年 ねん Year 

地球が太陽の周りを1回公転する周期。この周期をはかる基準点のとり方によって、値がことなるため、いくつかの種類の年がある。

回帰年、つまり太陽年は、太陽が春分点の上にきてふたたび春分点に回帰するまでの時間(→ 黄道)。1太陽年は平均の時間の長さが365.2422太陽日、つまり365日と5時間48分強である(→ 日:分)。

恒星年は、地球からみた恒星の公転周期。地球からみると太陽が1回転してもとの位置にもどるまでの周期で、365.2564平均太陽日、つまり365日と6時間9分9秒強である(→ 時間)。近点年は、地球が太陽にもっとも近づく近日点を出発し、軌道を1周してふたたび近日点にもどってくる周期。365.2596平均太陽日、つまり365日と6時間13分53秒である。12太陰月(→ 月)からなる太陰年は354日でユダヤ暦やイスラム暦でつかわれている。

  自転 じてん Rotation 

物体内をとおる軸の周りの回転運動。ふつう天体の自転をさし、公転に対する語。回転の軸を自転軸、1回の回転に要する時間を自転周期という。自転軸もまた完全に固定しているわけではなく、わずかながら位置が変化している。現在の地球の自転軸のさす天の北極は北極星の位置とほぼひとしく、自転周期は約24時間(正しくは23時間56分4秒)である。太陽や星が東から西へ1日に1回転しているようにみえるのは、地球が西から東へ1日(約24時間)に1回自転しているためである。

  公転 こうてん Revolution 

ある天体がほかの天体の周りをまわる運動。太陽の周りを惑星や彗星がまわる運動、惑星の周りを衛星がまわる運動、連星の場合に主星の周りを伴星がまわる運動などがこの例である。これに対して、天体が自分自身でまわる運動を自転という。

星座を観察すると、同じ時刻に星座のみえる位置は毎日東から西へ少しずつかわり、1年で1周する。星座がこのように季節によってかわるのは、地球が太陽の周りを公転しているからである。また、太陽が天球上の星座の間をぬって西から東へ少しずつ移動し、1年で1周するようにみえるのも、地球が太陽の周りを公転しているためである。太陽は星座の間をぬって1日に約1度、1カ月に約30度、西から東へ移動する。

  太陰太陽暦 たいいんたいようれき Luni-Solar Calendar 

月の満ち欠け(朔望:さくぼう)に暦の日付をあわせながら、太陽の運行すなわち季節にもあうように調整した暦。太陰とは月のこと。旧暦、陰暦ともいう。古代バビロニアや古代ローマの暦をはじめユダヤ暦、中国暦など、この種の暦はひじょうに多い。日本でも1872年(明治5)まで、この暦法がおこなわれた。現在、公式にもちいる国はない。

  太陰暦 たいいんれき Lunar Calendar 

月の満ち欠け(朔望:さくぼう)に日付をあわせる暦。陰暦ともいい、太陰太陽暦のことを太陰暦とか陰暦ということもある。1朔望月の長さは平均29.530589日であるから、暦の1カ月を29日と30日の組み合わせでつくると、月の満ち欠けと各月の日付の関係はほぼ一定にたもたれる。太陰暦の12カ月を1年とすると、太陽年より約11日短くなる(→ 太陽暦)ため、何年もの間に季節との大きなずれが生じてしまう。現在もおこなわれているのは、イスラムの宗教行事などでもちいられるイスラム暦(ヒジュラ暦:→ ヒジュラ)だけである。

  太陽暦 たいようれき 

太陽の運行にもとづく1太陽年(365.2422日)を基本に1年の日数をきめた暦法で、平年を365日とする。太陽暦の起源はエジプトにあったが、前45年のローマでユリウス・カエサルが4年に1度の閏(うるう)年(366日)をもうけたユリウス暦を実施、精度をあげた。

16世紀にローマ教皇のグレゴリウス13世によって閏年をさらに厳密にしたグレゴリオ暦が採用され、現在まで世界じゅうでつかわれている。

日本では、戦国末期からキリシタンが太陽暦をつかい、江戸時代には洋学者ら一部の人々に知られていた。幕末には本格的な太陽暦「万国普通暦」も刊行されたが、公式には太陰太陽暦を使用していた。

明治政府は1872年(明治5)に太陽暦を採用、明治5年12月3日をグレゴリオ暦の1873年(明治6)1月1日として新暦と称した。開国以降、欧米列強の暦との調整が必要となったからである。また当時、政府は財政難で、グレゴリオ暦の採用によって明治5年12月分の政府経費を節約することも変更の目的であったといわれる。