八ヶ岳山麓の水棲動物文様
八ヶ岳山麓の水棲動物文様
八ヶ岳南麓の広大な扇状台地を、縦に浸食した切掛川の深い谷の西側の尾根・藤内地籍では、帯状台地をほぼ円形に取り巻く縄文中期の竪穴集落が発見された。その中央の広場からは縄文中期中葉・藤内T式の巨大な円筒形土器を埋設した墓地が1962年春に発掘された。
「蘇る高原の縄文王国」「それからちょうど四十年」武藤雄六 回想録内
「蘇る高原の縄文王国」「それからちょうど四十年」武藤雄六 回想録内
その墓域には約15m径の円を描いた大形土器が埋め立てられ、その円の中心には有孔鍔付土器と呼ばれる大形の樽形土器が立てたまま埋められていた。
この胴部が脹らんだ樽形土器の用途は祭儀に用いる酒を醸す容器と言われ、それを立棺に転用したものと考えられる。その脹らんだ胴部には(身体を二分割された神像)が隆線で描かれ、赤色顔料が塗られていた。
この神像は両手を挙げ、両手を下げている運動の残像を四本の手として同時表現してあり、図像的にはインドにおける多面広臂像を想起させ、神像の手の上げ下げによって引き起こされる何らかの一大転換を表象するように想われる。
その図像面に現れる上下の転換を表現象と受け取れば、シバァの身体表現に示された創造と破壊、生誕と死の周期転換と同質に考えることができる。
インドにおける多面広臂像は、その性器崇拝と共に、源流をインダス文明の代表的遺跡であるモヘンジョ・ダロから出土した印章に描かれた三面を持つ神像にたどることができ、そこには月面の暗月・新月・満月の三転換に対する世界像を読み取ることができる。
モヘンジョ・ダロ Mohenjo-Daro パキスタンのカラチから北へ約300km、ラールカナの南部にあるインダス文明最大の都市遺跡。政治と交易の中心都市だった。1922年にバネルジーが発見して以来、20年代のうちにイギリスの考古学者マーシャルらが大規模な発掘をし、現在まで都市の範囲が80ha以上あり、城塞(じょうさい)地区と市街地区にわかれていることがわかっている。
城塞とよばれる西の小高い基壇になっている地区は、東の市街地区より規模がかなり小さい。ここは城壁でかこまれており、大きな公的建物群がある。これらの建物は穀物倉・会堂・大沐浴場などと考えられている。
市街は住宅や仕事場といった焼成煉瓦(れんが)づくりの建物群が、東西南北にのびる大通りによって区画されている。そして建物や道路には精巧な排水や下水設備がそなわっている。両地区から石製や青銅製の彫像、特異な三角形小陶板、さらに1000をこえる凍石製の印章など数多くの遺物が出土した。
モヘンジョ・ダロ出土のさいころ
これらの遊戯用さいころは、パキスタンのインダス文明の都市遺跡モヘンジョ・ダロから出土したもの。現在つかわれているものは、表裏の数字の合計は7になるが、このさいころは、1の裏が2、3の裏が4、5の裏が6である。前2000年代につくられたとされ、これまでに発見されたものでは最古の例である。
モヘンジョ・ダロの彫像
現パキスタンにあるモヘンジョ・ダロの都市遺跡からはテラコッタ、アラバスター、大理石などでつくった彫像が出土している。写真の像は前3000年ごろのもので、装飾的な衣装をまとい、髭(ひげ)をたくわえた男性をかたどっている。
インダス文明
前2300年ごろ、インダス川の流域で文明がおこった。ハラッパーやモヘンジョ・ダロなどの都市遺跡をみると、当時の人々は計画的な都市づくりをしており、下水設備などもあった。文字や数の体系をもち、高度な工芸技術ももっていたが、いまだ文字は未解読である。
モヘンジョ・ダロの城塞地区
モヘンジョ・ダロには、碁盤目状の街路や区画、排水設備、下水設備などが完備され、豊かな都市生活のようすがうかがわれる。手前が大沐浴場。後方の高い建物跡はストゥーパ(仏塔)跡で、後世のものである。
三面シバ神像 ここにしめしたヒンドゥー教のシバ神は3つの頭をもち、それぞれが別の神性をあらわしている。7世紀初頭につくられたこの胸像は高さ約5.5m。エレファンタのヒンドゥー教石窟にあるもの。
ミーナークシー寺院の彫刻
ミーナークシー寺院は、シバ神とその妃ミーナークシー(パールバティー)女神をまつっている。寺院の東西南北に、3000体をこえる神々の彫刻でかざられた、高くそびえる門塔(ゴプラム)を配している。
そして長い空白期間を置いてクシャーン朝の貨幣に多面広臂像として姿を現わし、ヒンドゥの多面広臂像に受け継がれてゆく。世界像を身体の一挙手一投足に集約的に封じ込めて居るのである。
又、前ギリシャ期のローマでは月神ヘカデが三面六臂像としてやはり暗月・新月・満月の三転換を身体像で表現している。
ここ八ヶ岳山麓の藤内遺跡出土の有孔鍔付土器に表象された二分割された胴体と四臂の神像もそのような表象から考えれば月の盈虚((月の)満ち欠け。転じて、栄えることと衰えること。盈虧(えいき)。 と死・再生を提示していると考えられる。
その容器で醸された酒という液体は月の不死の水と同質と見て取れる。
縄文中期には自然の運行としての月の盈虚を死と再生の存在論に転化し、図像として土器の上に表した可能性がある。
長野県・山梨県・神奈川県・東京都など中部高地を中心に湧水のある丘陵部に栄えた縄文中期中葉の「勝坂式土器文化」地域から出土する土製容器には、世界の新石器文化の中でも卓越してその世界認識像を土器造形の中に盛り込もうとした衝動を見て取れる。
器形は煮沸、貯蔵らの目的に似合った形態を選ぶことよりも、土器の全体的な造形を通じて、彼らの世界像を表現するために、その形態をはみ出しそうな危うささえ冒しながら表現に努めている。
土器文様もその世界認識の担い手で、それは土器の単なる従属的な修飾にとどまるものではなく、世界像のモチーフを表現するために、時には土器形態をも規定している。
そこに表わされた蛇・蛙・猪・魚などの動物や人神像も、縄文中期人に身近な動物を写生したというような端的なものではなく、意図的に選定され世界像のモチーフを集約的に担って描かれた動物の姿であろうと想われる。
これら同一土器形式の出土する地域的・時間的拡がりは、それらの世界像の約束が通用する同一文化圏を形づくっていたと考えられる。
藤内広場の中心を占めた(手を上下する神像)を描いた有孔鍔付土器の周囲の円周には、多分改葬骨を納めたであろう土器群が埋め立てられ、北西側と西側には四個の大型深鉢が立ったまま埋設され石臼や大石で蓋がしてあった。
それらの円筒形土器の胴部に表現された図像は、水棲動物、或いはその変容した姿が描かれており、その水棲動物の変容する姿を描いた背後には、何かいわれのある物語が隠されているように思えてくる。既にこの筒形土器に描かれた水棲動物を巡って、縄文中期の人々の世界観を探し出す試みが井戸尻考古館のスタッフを中心に行われている。それら先行者の見解を採り入れながら近づいてゆきたい。
武藤雄六氏は藤内T期の装飾土器を例にして土器全体を空間的にその部位により垂直面に沿って五分割して、土器の中での画像配置の位置と、それが表象している自然界の空間配置、天上界・地上界・水界(地下界)などの対応を基本的に明らかにした。
その考え方に沿って、この水棲動物を描いた土器を見ていくと、巨大な円筒胴部の垂直面をキャンバスにして、胴部を真横に横断して上下の空間を画然と区別するキャタリラー文の線と、それに繋がっている横長の円盤文は、生成する地界ないしは水平線を暗示し、その直上には天上界を暗示する縄文地の空間が拡がり、その直下に水棲動物が遊泳する無文地の水界が拡がっているように想われてくる。
縄文地で示す天上界には、一対二個の太陽か月を示す円文のある土器や、暗闇を切り裂く閃光のような線が斜めに駆っている土器もあり、黎明期の混沌とした天地を見ているような錯覚に墜ちる。
始原状態の異様な天界現象のただ中で分離生成するクラゲ状の大地を背で支え躍動する水棲動物が描き出されているように想われてくる。
(「縄文のメドゥーサ」・土器図像と神話文脈 田中 基)